親ガチャのロジックは弱者救済の夢を見るか

学歴や年収、そして人間の能力は、生まれた環境や遺伝子、つまり親によって決まるという”親ガチャ”のロジックが力を持ちはじめて久しい。

良い大学に入れたのは親が高学歴でお金持ちだからであり、スポーツや芸術で成功できたのは親が身体的に恵まれており、子に英才教育を施したからであるという主張だ。

反論として、貧しい環境に生まれながら、”努力”で偉業を成し遂げた偉人の例が挙げられることもあるが、そもそもその”努力”ができるかどうかということも、遺伝や環境(つまり親)によって決まるのだという主張が根強く、努力論者は劣勢になっている印象を受ける。

”親ガチャ”のロジックはおそらく正しい。

人は生まれながらにして平等ではないという主張は悲しいことであるが、考えてみれば当たり前のことだ。例えば、日のあたる場所にタネを落とせば花は咲き、そうでなければ芽が出ずに腐る。さらにタネにも当たり外れがあり、それはタネ自身の努力でどうにかできるものではない。

では、我々人類はたまたま力を得た者だけが繁栄し、そうでない者は不遇を嘆き死んでいくしかないのだろうか。

その思想は人類と文明への冒涜である。

人間の他の動物の大きな違いは発達した前頭葉である。特に人間の「前頭前野」は大脳の中の約30%を占めており、動物の中でもっとも大きいチンパンジーなどでも7~10%くらいしかない。

前頭葉には「他者の気持ちをおしはかる力」がある。人間が他の動物よりも繁栄できたのは、他者の気持ちを考え、高度なコミュニケーションをとることができたからだと言われている。

もし人類に前頭葉が発達していなければ、殺人、窃盗、強姦などが横行し、ホモ・サピエンスは早々に地球史から退場していいただろう。弱肉強食という自然の摂理を前頭葉の発達、文明の発展によって克服できたからこそ、我々人類は40万年も生き延びることができたのだ。

ゆえに、強いもの、弱いもの、との格差を”親ガチャ”の名の下に甘受しようとする現状は、決して望ましいものとは言えない。文明が退行している。

我々人類は紀元前から、布施、奉仕といった弱者救済を重んじてきた。この弱者救済の倫理こそが、人類と野生動物とを分ける最も尊い魂である。

”人は生まれながらにして平等ではない。だから、困っている人がいたら助けましょう。”

そんな人として当然あるべき倫理が失われてしまっている。弱者救済の倫理が失われた社会は崩壊の一途をたどる。

親ガチャ論による絶え間ないヒエラルキーと劣等感の再生産。

どれだけの財産を得ても本当の幸せを得られない個人主義社会のジレンマ。

これらは我々が原初的に持っていた弱者救済の遺伝子(あるいは欲望)から目を背け、市場主義経済と競争の倫理に身を委ねたところからはじまっていたのではないか。

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